量子力学でアプローチを考える死後の世界
その1. 私たちは幽霊と共に生活している
のっけからこのタイトルで、「ああ、こいつの言いたいのは我々が常に目に見えぬだけの無数の霊たちと共に異次元のような関係で共存しているというたぐいだろう」とお思いのかたもいらっしゃるかもしれません。このような言い方で失礼でしょうが、「違います」。目指す最終推論、あるいは仮説は、その通りですが、たとえこれだけ超能力・オカルト・心霊現象・体外離脱・・・さまざまな言い回しで語られるこのての話が、かなり市民権を得たと思えるこの時代にあってなお、「死んだら無だ」と断定してはばからぬ人のほうが圧倒多数なのが実際です。
なお、このページはタイトルからも察せられるように、この細かい文章でぎっしりになります。又、求めておどろおどろしい「四谷怪談」のような世界に皆様をいざなおうという意図は全くありません。ですから、ここは怪奇談を数だけ並べて体裁を繕おうという目的もありません。少しずつ更新するのは仕方ないとしても、もっかのところ、背景に色を選ばないのも、オカルト色をなるべく感じさせない趣旨の表われでもあります。
タイトル直下に書きましたように、本ページは現代物理学最先端の「量子力学」を以て、この種の問題にメスを入れて行こうというものです。本題に入る前に、現代物理学がいかに、ちまたの情報を越えているかということの一端を紹介しますと、もはや、ニュートンの力学、アインシュタインの相対性理論、やや新しくはホーキングの宇宙論、すなわちセンセーショナルだったビッグバン、これらをことごとく否定しています。しかも、充分反論の根拠を挙げています。更に、これら普遍の真理とまで思われていた理論を否定する学者たちは、その多くがノーベル賞受賞者及びそのレベルの著名人だらけというのも驚きです。そしてこっけいともいえるのは、彼ら革新の物理学者たちが、実験・実証を経て、それまでの持論をいやいやとも思えるようにして、自ら否定し、なおかつ「なぜ世界はこのような無気味な物が絡んで来るのだ!?」とまで言っている点です。
以前「臨死体験」がちょっとしたセンセーションを起こし、これぞ死後の世界を垣間見た体験の有力な証拠と言いたくなるほど、興味ある者にはわくわくする話題としてマスコミなどに取り上げられたことがあります。
でも私はなぜか冷めていました。おびただしい臨死体験者の誰一人、臨終を告げられ、明らかなる死の様相を呈したのちの生還者ではありませんでしたから、これは、しょせん、からくも一命をとりとめた「生きている人」の興味深い体験としか受け止められませんでした。もちろん、心の中では「臨死体験」が「臨終時体験」にだいぶ近づいたという満足感はありましたし、これがやがて「死後体験」の入り口であることがわかればいいがと、希望を持ったことは正直な気持ちでした。今ひとこと書いた「臨終時体験」とは、これこそ「死ぬ人がその直前に体験する事柄」のことです。でも、これとて、臨終間際の脳内の異常現象又は特殊な生理現象として否定することは可能です。
さて、いよいよ本題に近づいていきます。まず、赤いタイトル中の幽霊とは、下図実験に使われるある「物質」のことです。なお、これまで既に量子力学という言葉を繰り返しましたが、力学はいいとしても、そもそも量子とは何か、これにひとこと触れる義務が私にあります。ただ、時々お詫びしたり断わらせていただいたりしますが、私自身、高校の原子物理学を余り理解しなかった程度なので、それを上回る量子力学に至っては、わからないことだらけです。それでも、後述のある著書を以て、私が如きかぼちゃ頭にも、言わんとするおおまかな内容・推論だけはほぼ理解できました。そして、その著書が唱え訴える新解釈の霊界論が、余りにも宗教色を廃し、徹底して最先端物理学を駆使してわくわくするほど迫るものがあったので、著作権を侵害する無礼なきよう、例えて言わば、学科の教科書を理解しかかった生徒が問題を記述で解くように、このページをつづることを決めたのです。すみません、まず量子の定義でした。失礼ながら「量子」とは何かを物理学に則って述べると、かえってわずらわしくなります。そこで本ページをお読み下さるかたのために、くだいた表現で申します。「量子」とは、光を構成する光子・電子のように、ミクロ(極微)の粒子のことと思えば間違いありません。量子力学は「量子物理学」などとも言いますが、ここでは量子力学で通します。
まず「幽霊」と書いたある物の正体を先に書いておきます。それは光、又は光子です。これが著しく無気味な行動を見せることが既にわかっています。下図タイトルの「ダブルスリットの実験」で見せるはなはだ不可思議な現象です。でも、この量子が見せる無気味さを素直に捕えぬ閉鎖的傾向を古来見せて来た我が国の学者は、ご覧のように関係書に図説しておきながら、これを旧態依然とした量子力学の範囲でしか解釈していません。
図中の文字などは解像度の関係などで読みにくく、申し訳ありませんが、まずご覧になっていただきたいのは、四角で囲んだ一番上の図でない、その下の二つに分けた図です。更に面倒ですみませんが、図中「電子」とあるのを、とりあえず同じ量子である光又は光子と置き換えて下さい。お話しは光子のつもりで進めていきます。
光源から出た光は、二つに切った短冊形の縦長のスリット(細長いすきま)を通ったのち、右側のスクリーンに白黒の縦じま模様を作ります。日本の学者はそれを光の性質として捕えておしまいのようですが、欧米では、ここに既に「不思議だ」という考えを起こしています。本論は、そろそろ図の下に文字列を移して進めますので、図と見比べながら読み進めるのに不便かもしれません。諒としていただければ幸いです。
言うまでもなく、縦じまの白い部分は光が当たり、黒い部分は全く一つの光子も到達しない暗くなっているところです。なぜこのような現象が必ず起こるかについてとりあえずひとことに言えば「光は波の性質を持ち、光源を出た光子たちが互いに干渉しあって(波の干渉)、二つのスリット通過後縦模様の干渉じまを作るからである」ということになります。
ところが光は波の性質を持つのみならず、光子と呼ばれるわけだから、粒子、粒としての性質も併せ持っています。
ここでいきなり光子を粒子、波両方の性質を併せ持つものとして、どんどん話を進めてしまう前に、「波」というものについて、先に書かせていただきます。
例えば身近な例として水が起こす波はどうでしょう。池に石でも投げ込むと波紋が起きます。無論これが波です。では波を構成する要素の一つ一つを、水という物質の次元で観察できるかというと、これができません。水をすくって「物質」として手にのせることはできますが、水の起こした「波」だけをてのひらにすくいとることは不可能です。
波紋という物理現象は目に見え、写真にその一瞬を焼き付けることも可能ですが、水そのものはその場で上下動するだけで、H2Oの分子が波を起こすのにどう貢献しているかを観察することは絶対不可能です。
さて、先に「ダブルスリットの実験」で「波の干渉」という言葉を使ってしまいましたので、やはり捕えやすい水の起こす波を例に、話を進めます。
船と船とがすれ違う時、それぞれの起こす二つの波が重なって、波の山が高くなったり、打ち消しあって消滅したりします。これを「波の干渉」といいます。そして、このことが先ほどの光を用いたダブルスリットの実験でも起こり、水の波の干渉とは違った形ではありますが、白黒の縦じまを作ります。そして、この縦じまを光波による「干渉じま」といいます。
それぞれのスリットを通過した光波同士が、互いに強めあったり弱めあったりして、明るい部分と暗い部分とを作り出しているのです。
ところが!! スリットの片方を人間の意識で閉じると、とたんに干渉じまは消滅して、スクリーンには光源からの単なる光のしみが映るのみとなります。「閉じたんだから、光波の干渉という性質をシャットアウトしただけじゃないか!?」と言うかた、これも失礼ながら光子の二つの性質の不思議さからの連想力に欠けていると言わざるを得ません。無礼と思ったら、お許し下さい。申しましたように、私自身理解不可能領域がいずれ訪れます。わかるうちに、この興奮に値する現象を、やや劇的な雰囲気になるよう、拙い文章をつづっているだけです。
光の性質を繰り返すと、光子つまり粒子と光波つまり波との二つの性質を併せ持っています。要するに両面からの考察が可能なわけです。光を粒として考える時、光源からあらゆる方向へ放たれる一つ一つの光子は、光の直進性に従って、何の意志もなく、行く手にあるスクリーンにまっしぐらに二つのスリットのいずれかを偶然に任せて通過するはずです。それならば、スリット通過後の光子たちは、スクリーンに単なる光の集まりとして達するのみであるはずです。
それなのに事実は、ある数の光子は白く光る縦長の長方形を構成するために、その位置に集中し、結果、光子がただの一つも達しない部分ができ、全体として白黒の干渉じまがスクリーンに映るのです。何の意志も持たないはずの光子たちが、まるで申し合わせたかのように、明るい部分と暗い部分を作るべく動くのです。彼ら光子たちは、果たしてどうやって各々の到達点を目指す、あるいは決めるのでしょう?
ずいぶんへたな図で申し訳ありませんが、既にずっと上へ行ってしまった、最初の図を私なりに改めて描きなおしたものが上掲図です。「ダブルスリット実験」とは、縦長に二つに切った短冊形の隙間(スリット)を通った光子たちが、「光波の干渉」という現象を起こして、右のスクリーンに白黒の縦じま模様を作ることを確かめる実験です。ここでは光源から光を一気に放出させています。
ところが、光源を弱くして、光子を弾丸のように一個ずつ発射させることもでき、この実験も既に行なわれています。実験開始まもなくは、光子は銃から発した弾丸の如く、でたらめにスクリーン上に並びます。ところが、長い時間経過の中で一つ一つ発射された光子たちは、結果としてスクリーン上に白黒の干渉じまを構成することが確かめられました。ごく普通の常識で考えれば、一つ一つ縦長のスリットを通ったのち、最後にスクリーンに二つのスリットと同じ形の白い長方形を作るはずです。事実は既にご覧になった通り、一つずつ時間をかけて発射したにもかかわらず、見事な白黒言い換えれば明暗交互に分かれた縦じま模様を作るのです。
初めに掲げた図では、光源からの光を一気にパッと、懐中電灯でもつけたようにダブルスリットに向けて放ったような印象しか受けません。でも、光子という粒を一個ずつ発射する、時間をかけたやりかたでも、最後は白黒の干渉じまが出来上がることがわかりました。その点で、初めに掲げた図は、肝心の光の行動の不可思議さを無視したか、ぼやかしたとしか思えません。これが頭のかたい我が国物理学者の考え方です。ですから、霊魂や死後のことについて、量子力学から何かをつかみとるために、とりあえず書店のごく普通の関係書をいくらさがしても、エキサイティングな記述は全くありません。
私の予想ですが、将来、欧米の物理学者たちが確固たる証拠を遂に見出し、これを全世界に広める頃になると、我が国の物理学者たちは、そろそろ光子の無気味さどころか、霊魂の存在を認める書物を、さも自分も、とうにそう考えていたと言わぬばかりの顔をして出版し、それ以前の石頭ぶりなど恬として恥じぬことでしょう。厚顔無恥というやつです。
さて、既に述べたように、人の意図でスリットの一方を開閉することによって、光はその進行方向を瞬時に変化させ、白黒の縦じま模様を見せたり、スクリーン上に単なる光のしみしか残さないようにしたりします。
これでは、まるで光の粒の一つ一つに意志があるのではないかとさえ思えて来ます。失礼ながら、もうそろそろ光に意志があるかもしれないとお思いのかたは、どうぞその考えを前提として、読み続けて下さい。いずれ目指すのはそのことも含む更に無気味な世界へ近づくことですから。
人が意図してスリットを開閉したとたん、光子たちは、その行動を瞬時に変化させるというなら、この短冊形のスリットの開閉による光の進路変化を知れば良いではないかということも考えられます。ところが奇妙なことに、ミクロの物質では、この進路測定が不可能なのです。確かに光子の発射点と着弾点は確認できますが、途中経路の測定が絶対不可能なのです。
例えば百メートル競走ならば、走者のスタート位置とゴール地点は当然確認できるばかりでなく、途中の経路まで確認できます。が、ミクロの世界では、粒子の発射点と着弾点はわかるにもかかわらず、中間の距離をどう通り抜けたのか、誰もどうしても見えないのです。
そのために量子力学では、個(粒子)である光子がスリットの二つの穴を「幽霊の如く」同時に通り抜けて、スクリーンに着弾点を構成すると結論しているということです。
私たちが幽霊と共に生きていると題したのは、まずはこの光の不思議な行動を意識してのことです。そして、幽霊の如き行動を人知れず悠遠の太古から、恐らくは悠久の未来まで続ける量子(又は定義を変えると、素粒子とも呼ばれる物もありますが)は、今回導入部材料にふさわしいと判断して説明に使った光子にとどまりません。電子・中性子といった物も、魔的な行動と性質を示す点で、量子の仲間です。
物理学は、不可視領域の物を認めぬ、唯物論の最先端学術理論として、進歩発達を続けて来ましたが、その最たる理論である量子力学が進めば進むほど、皮肉にも死後の世界を擁護する理論に次第に近づく現状です。くどいようですが、書店で量子力学関係書をさがしても、難解を極める退屈な内容で埋め尽くされているものしか見つからないでしょう。
死後生の科学考証は、まだほんの端緒についたばかりです。この先は私自身余りわからない理論を含めた世界に突入していきます。でも、理屈はわからなくても、この世が魔的な世界であることを解き進める目的は終始一貫、変わることがありません。ここで、その1を終わる一区切りとなる場所を借りて、本仮説展開の有力な資料として教科書として参考にさせていただいている書名につき、以下に記しておきます。
参考文献
「死後の世界を突きとめた量子力学」(初刷: 1996年、平成8年)、コンノケンイチ氏著
著者紹介
1936(昭和11)年東京生まれ。空間物理を提唱する異端のサイエンス・ライター。一貫してビッグバン理論を否定すると共に「宇宙はエーテルという物質態である」とかつて唱えられた、エーテル概念の復活を説く。
(なお、上に紹介した文中のエーテルとは、麻酔薬などに使われる有機化合物のエーテルとは全く関係ありません。このことも本ページで後述します。)
「その1: 私たちは幽霊と共に生活している」了
「その2: 人間をあざ笑う量子という幽霊」へつづく(その2更新までお待ちください)
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